ここは「MMT日本語リンク集」(みてねー)の番外サイト。 MMT(現代金融理論)「論」をウオッチしています。 良い紹介、よい批評を読みたいよね!
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先週催されたロンドンでのイベントでは、政府は公債を発行するべきではないという話をした。公債発行の機会費用は利益を上回るからだ。現代金融理論(MMT)の目で見れば、財政赤字を政府債務と一致させる特段の必要性はなく、財政赤字は、Overt Monetary Financing(OMF)と呼ぶ金融オペレーションで運営されるべきなのだ。驚いたのだが、聴衆から政府債務を発行し続けるべきではないかという声も出た。私の理解が正しければ、それは労働者が将来のために貯蓄するため安全な避難所を政府が提供するためという理由からの発言だ。つまり、労働者が苦労して得た貯蓄を保持しておくのに使用できる無リスク資産を提供するためだけのために、公債の発行にまつわる複雑な仕組みを維持するというご意見だ。その目的のためであるならば政府はその通貨発行能力を、公的に運営する国民貯蓄基金に行使するとした方がはるかにシンプルになる。債務は一切不要なのだ。
アバ・ラーナーの機能的財政論が出発点になる。この論はMMTの発展に大きな影響を与えたものの一つだ。ラーナーは、政府が債務を発行するのはどのようなときであるべきかの指針を提示した。
ラーナーは、通貨発行政府の責任とは、経済における総支出が完全雇用と確実に一致する水準に維持されるようにすることにあると説明している。
政府は、支出と徴税の方針を変化させることにより、各時点の生産性水準において、仕事をしたいすべての人に仕事を提供するのに十分な売上を生み出すようにすることでその責任を果たす。
ラーナーはまた、政府が責任を果たさない場合よりも責任を果たした場合の方が財政赤字が多くなりがちだが、それは「別に悪いこと」ではないとの理解をしていた。
1943年の論文、機能的財政と連邦債務の中でラーナーは次のように書いている。
…中心となる考えはこうだ。政府の財政政策、支出と徴税、債務の借入と返済、新貨幣の発行と回収、これらの行動はみな経済に及ぼす影響のみを見据えて行われるべきだ。健全であるか否かという、根強い伝統的な教義に拠ってはならない。この、ただ効果のみによって判断するという原則は、人間活動に関する他の多くの分野でも適用されてきたものだが、スコラ哲学に異議を申し立てた科学の方法として知られているものだ。ある財政措置を判断するときは、それが経済の中でどのように機能するのかによるべし。この原則を機能的財政と呼ぶ…
政府は、経済における総支出が、現在の価格で完全雇用水準の生産高を購入するのに十分であるものより多くも少なくもならないように支出と課税の割合を調整するべきである。それが、赤字、借入の増加、「貨幣の印刷」などを意味するとしても、そのこと自体は良くも悪くもなく、単に完全雇用と物価安定の望ましい目的を達成するための手段に過ぎない。
[Lerner, A. (1943) ‘Functional Finance and the Federal Debt’, Social Research, 10(1), 38–51].
政府が焦点を当てるべきは赤字の額ではなく、完全雇用によってもたらされる繁栄と抱合だ。
彼はまた、世に新しいアイデアが発表されると人々は「ひどい結果になるというおとぎ話に容易に恐怖する」ことを理解していた。
この恐怖は、教育の欠如、つまり実際に経済がどのように機能しているかを人々が理解できないようにしておくことによって増幅される。
新自由主義者は、本来は賢明であり実行可能でもある経済問題の説明を悪魔呼ばわりすることでこの恐怖を拡大させる。
彼らは、正しい考えを恐怖やタブーの領域に棚上げしておけばそれらが政治的に受け入れられなくなる可能性が高まると知っている。
この戦略が彼らのイデオロギーアジェンダを前進させる。政府の財政政策を導くための、あるべき基本的な規範はラーナーの言では「極端なまでに単純」であり「その単純さこそが、うますぎる話では?と国民に疑わせてしまう原因だ」)。
新自由主義者は、通貨を発行する政府に実行できる本当の選択肢を国民が理解しないようにしておくことに強い関心を払っており、こうした疑いを煽る。
新自由主義者は、これら単純な真理の替えて神話や比喩を使う。そうした比喩は公衆と共鳴することで「現実」というものになると彼らは知っているのだ。
ではラーナーは債務の発行についてどう言っていたのだろう?
政府が「常に妥当な水準の需要」を維持し「最適な投資額を誘導する」金利を維持するという文脈だ。
In this Biography of Lerner you read the following (pages 218-19): このラーナーの伝記には次のようにある(218-19)
1943年、ラーナーは財政政策への新しいアプローチを発表した論文「機能的財政と連邦債務」を発表した。 彼は、従来の財政学の知恵は優れた家計管理の原則と道徳に基づいていると指摘した。まだ持っていないものは使わない - 「経済」という単語の語源はギリシャ語で家庭を表す言葉oikosだ。
これに対しラーナーは、ケインズの立場から赤字支出の概要を要約した上で、政府は従来のような道徳に依るのではなく、行為の結果だけを考慮すべきだと主張した。
政府の支出および課税の目的は、現在の物価水準で完全雇用と両立できる水準になるように経済全体の支出を維持すること、つまり、失業もインフレもないようにすることことだと彼は述べている。
その際政府は財政赤字や債務を気にするべきではない。第二に、借金や返済をするのは、国民が保有する有価証券と貨幣の割合を変更したい場合に限るべきだ。
この割合を変更すると金利が上昇または低下するため、信用による購入や投資が抑制または促進される。財政赤字をどう賄うかだけの問題ならば紙幣を印刷せよとラーナーは提唱した。
第三に、第一、第二の原則の成果を実現するために、政府は必要に応じて貨幣を循環に加えるか、撤退させる(破壊する)べきであると。
このように、政府が債務を発行すべき唯一の理由は「国民が保有する有価証券と貨幣の割合」を変更したい場合に限っている。政府には歳入を増やす必要がないことを明らかに認識している。
ラーナーは1943年の記事で(355ページ)、政府が負債を発行するのは「そうしないと金利が低すぎてしまう」場合のみであるべきと述べている。皆さんも、資金調達に必要だから「借りる」のではなく、それは金融行為なのだとわかり始めて来ただろう。
彼は1951年の著書(10~11ページ)でこのテーマをさらに進めている。
赤字のために…貨幣を支出し…通貨(および銀行の準備金)のストックを増やし続けると、金利が下がり続ける。 政府は何とかして自身の支出による資金ストックの増加によって金利が押し下げられるのを防がなければならない...。そのためには明らかな方法がある。政府は支出した貨幣を借り戻せばよい。(強調は原文)
これはMMTの基本的な洞察の一つだ。すなわち、債務の発行は、純支出(財政赤字)によって生じた過剰な銀行の準備預金を中央銀行が排出するために有効な手段である。
それが昨日のエントリの話題だった。
政府が自ら支出したものをただ借り戻す、あるいは中央銀行が夜間の準備預金に利息を支払う。これらをしなければ金利はゼロ(あるいは中央銀行が支払うサポートレート)になる。
そして、進歩主義者(財政ハト派)―「組織的繁栄の支持者」―に対しラーナーは1951年の著書(15ページ)の中でこう言っている。
彼らは臆病心から、伝統的な教義の偉い支持者に衝撃を与えかねないことを言うことをためらい、新しい学説を、あたかもそれが古い学説に見えるよう偽装したい誘惑に駆られる。しかしこれはほとんど役に立たない。新しい学説が伝統の支持者の目に無害に見えるようにしようとすると、自分たちの主張が損害を被るからだ。国家債務の規模はそれほど大きな問題ではないと彼らは言わず… [そして] …予算は不均衡でなければならないとも言わず、繁栄の達成と比較すれば債務が微々たる問題でしかないという主張をしない。彼らは年次予算だの循環対応予算だの資本予算だの、特別な予算という入念なシステムを入れることによって不均衡予算(従って債務規模)を偽装する提案をする。
MMTは、政策金利はゼロに維持されるべきであると提言している。それは公債を非政府部門の手に委ね蓄積させる必要がないからだ。
そもそも公債を発行する理由は何か?
たとえ完全な「市場志向」アプローチを採ったとしても公債の発行を説得的に擁護できる理屈はない。
労働市場を始めとしたいくつかの市場は周期の対称性がなく負のショックが持続するため、いったん失われた進出と雇用を取り戻すコストが高く、政府の介入が不可欠である。
対して一般に金融市場は、適切な規制の枠組みの中で初めて運営が認められており、競争理論で論じられるパラメータにかなり該当し、政府の直接的な介入が無くとも合理的に効率的な成果を生み出すことができる。
政府による民間市場への介入は重大な問題なのであるから、適切な費用便益分析によって正当化されるものでなければならない。
現代の金融システムは信用供与を通じて実体経済と結びついている。家計も企業も信用への安定的なアクセスの恩恵を受けている。
金融の安定を達成するためには:(a)主要な金融機関は安定していなければならず、業務の中断や外部からの支援を受けることなく契約上の義務を履行できるという確信があり、(b)主要な市場が安定していて、ファンダメンタルズを反映した価格での取引がサポートされていなければならない。
ファンダメンタルズに変化がない場合は、短期に大きな変動があるべきではない。
金融の安定には、広範な経済的損害を引き起こさない水準で価格が変動している必要がある。物価は経済のファンダメンタルズの変化を反映して動くし、動くべきものである。 金融の不安定は、資産価格が経済のファンダメンタルズの水準から大きく乖離し、実体経済にダメージを与えることで生じる。
金融市場において、思慮を欠いた投機から実態部門には影響を与えないような破綻、あるいは適切な流動性供給によって実態部門から切り離すことができる破綻が発生したとしても、それは問題ではない。
安定した金融システムの基本的な要件は以下のごとくだろう。
1.明確に定義された所有権;
2.中央銀行による決済システムの監督;
3.金融機関の自己資本比率規制;
4.銀行預金者の保護;
5.流動性危機において、民間金融機関が支払能力のある借り手への融資を拒否した場合の最後の貸し手;
6.民間の投資家・債権者間の協調の失敗を改善するための機関;
7.破綻した機関への出口戦略の提供。
以上の要件の一部は民間機関によっても提供され得るが、すべて政府あるいはその指定代理人に属す。
そして、これらの要件はいずれも国債市場の有無とは関係がない。
私有財は売り手と買い手がそれぞれの利ざやを反映した価格で取引する市場において交換される。
商品やサービスの所有権は合意された価格で売り手から買い手に移転する。
私有財は、排他的(つまり取引の当事者以外はその消費を楽しむことができない)かつ競合的(つまり他の潜在的な消費者がその商品やサービスを利用することを否定している)である。
対して公共財は排他的でも競合的でもない。民間市場には公共財を生産したり購入したりするインセンティブがないため、民間市場だけで社会的に最適な量の公共財を供給することは不可能だ(フリーライダー問題)。
社会的に最適な供給が確保されるためには、集合行為または政府によって公共財が生産または調整されていなければならない。
我々は、安定な金融システムは公共財の定義を満たしており、政府の正当な責任であると結論する。
持続的に公債を発行することを支持する議論の多くは、結局のところ、企業部門が公的な事業をするためにはその投資家にリスクフリーな国債が要請されるとの議論に還元される。取引からの収益、手数料、管理料、コンサルティング・サービスおよび調査手数料だけではなくそれも必要なのだという。
皮肉なことに、この議論は金融セクターの同じ利害関係者がふだん一口にするレトリックと矛盾している。彼らは常に、政府の介入を減らし、民営化を進め、福祉の削減を進め、様々な公益事業や労働市場を含む市場全般の規制緩和を緊急に行う必要があると言っている。
特に政府による民間市場の価格への介入は、効率性の観点から経済学者の批判を浴びる。
ところが公債の発行は、金利市場における政府の価格介入の一形態である。
立証責任があるのは公債発行の支持者の側だ。国債市場は政府の介入なしには運営することが不可能だが、その政府支援がないと、上述したマクロ的な優先事項(失業その他)に有害な結果がもたらされるとの主張を維持しなくてはならない。
プライシングの基準として
公債の発行を支持する一つの議論としては、国債のイールドカーブが金融市場におけるリスクフリー資産のベンチマークとして他の債務証券の価格の基準になる、というものがある。
明らかに別の複数の選択肢が存在する。
1. 市場は、類似した性質を持つ他の証券の価格を参考に相対的な価格付けをすることができる。
2. 市場参加者は、金利スワップ曲線を基準に証券の価格付けをすることができる。
現に市場参加者は金利スワップ・カーブを使って証券価格を決定している。金利の構造は需要と供給で決まる。債券の買い手と売り手が価格を提示し合って決めるのだ。
公債の発行論者は、政府が市場に介入しない限り、債券の持ち主と買い手が価格をマッチングさせることができないと本気で主張するのだろうか。
政府の介入なしに価格を適切に決定できるほどの参加者、情報、競争力が金利市場には備わっていないとおっしゃる?
どちらの主張も、その正当性の立証は疑わしい。後に記すような、公債発行に起因すマクロ的な高コストを打ち消しうるものではない。
金融リスクの管理
民間のトレーダーが金融リスク、特に金利リスクの管理のために普及しているデリバティブ市場が既発国債に支えられているという議論もある。
ではそこでの金利リスクとは実際どのくらいのものなのか。懸念される変化がどれだけの経済的コストをもたらすというのか。
対しては詳細には立ち入らず、公債がどのようなビジネスで使用される 「必要」 があるかをただ挙げるのがポイントだ。公債の発行は、実際には投資行動を奨励しているのではなく、投機行動を支援奨励しているのだ。
金融市場の投機にも健全なものはある(例えば、メーカーの為替リスク軽減をサポ―トするような)。しかしそれは毎日の金融市場での取引のごく一部に過ぎない。
ではこうした、国民の幸福に特に資するものではない特定のビジネスを支援することは適切な公共政策なのだろうか。
以上の文脈から、私は公債の発行は企業福祉だと言っている。
またMMTは金融市場を簡素化し、国民に実質的な利益をもたらさない投機行動は段階的に廃止していくいことを提唱していることも理解されたい。
長期投資のための資産として
木曜日のロンドンでなされた議論だ。この議論は大ざっぱに言えば、労働者はその貯蓄をリスクのない資産として保持されると期待する権利があり、公債の発行はそのための資産を提供するというものだ。
私は労働者が安全な方法で貯蓄(将来のリスク管理)できるようにすべきであるという原則を支持するものだ。しかしそれは公債の発行による巨額の企業福祉を正当化できるものではない。
この議論をより正確に言えば、老齢退職年金や生命保険会社は公債を購入できないと、適切な資産償還と長期負債とのマッチングが困難になるという論だ。
さらに、ドル建て資産を保有する労働者にとっては公債が廃止されると貯蓄の投資先がなくなるという主張だ。退職後のプランが不確実かつ高リスクになるという話になる。
理解されていないのは、公債が政府にとって年金になっていることだ。
民間部門における投資が、民間主体が発行する負債ではなく、政府年金によってなされることを、公債発行の支持者は本当に望んでいるのだろうか?
この論点は、国債がポートフォリオ分散化を促進するという主張にも当てはまる。私たちは民間で利潤を追求している投資家に政府年金を提供したいだろうか?
政府の直接的な支払いによって市場の投資機能の阻害し、民間部門の主体を助成するこうした行為が為されるのは、民間市場が失敗し実体部門の産出(雇用)や価格の安定が脅かされた場合のみに限定されるべきだ。
そして退職者助成の方法としては、年金サポートをも包含するような、より豊かな公衆福祉制度を政府が直接提供する方法との比較をするべきだ。
それはともかく、労働者にリスクフリーの貯蓄手段を提供するためのより効果的な方法もある。政府が通貨発行能力を行使して、完全な保証付きの国民貯蓄基金を創設することだ。ファンドに貯蓄を委ねるよりも有利な収益を提供することができる。
公債の発行(および、それに伴う企業福祉や政府債務の管理機関)は必要がないのだ。
政府はいつでも名目債務を返済することができる。
安全な避難先として
国債はまた、金融不安のときに投資家に「安全な避難所」を提供するとされている。
「質への逃避」という議論だが、投資家が他の資産の資本損失を回避する手段として無リスクの国内資産を利用できることがマクロ経済にとって有益であるという論だ。
しかし国債とは、上述の通り政府の年金を通した助成金であることとは別に、他資産と直接競合するものでもある。国債の存在によって他の資産の価格は安くなっており、さらに「質への逃避」が可能であることが、問題を悪化させる効果につながっている。
貨幣経済においては投資家は、現金または銀行預金を持つことによって、常にマネーのバランスを維持することができる。
預金保険の利用が普及しているため、銀行預金は実質的に国債と同等である。
資産を預金に移すことは「リスク」を銀行に委ねたことであり、中央銀行の規制下にある資産を選んだことに他ならない。
利益最大化を目指す民間主体はこうしてリスク-リターンを勘案して預金を選ぶ意思決定ができることになるが、政府の年金を歪める市場という避難場所を設けることで「さらに保護される」べきであるという議論を正当化するマクロ経済的な理由は存在しない。
さらに言えば、「質への逃避」をしたときに、投資家が持つ様々な固定金利債券の相対価格は変化し得るものの、その総量は変わらない。何しろ投資家達は既存の公債をめぐって競争するだけなのだから。
マクロレベルで見て、このプロセスで総リスクが軽減したりはしないのだ。
金融政策のツール
以前のエントリで、中央銀行は超過準備金に金利を支払うことによってえ金利政策目標を維持できることを説明した。
中央銀行はこの目的のために公債の存在を必要としてはいない。
公債の発行を正当化する議論はための議論は他にもいろいろある。それは皆、煎じ詰めれば、投機家がリスクフリー資産を求めているからということになる。
では公債発行にかかる経済的なコストはどのくらいなのだろう?
ある資源を使用する活動の実際のコストを測定するためには、その資源を使用しない場合の機会費用を求めることになる。
公債市場の運営は、他の場所で利用可能な実物資源が充てられている。
仮に公債市場が存在しないような経済状況を評価するのは困難ではあるが、われわれの考え方の構造を示すため、いくつか指摘できることがある。
公債の「産業」において直接的または間接的に雇用されている労働力の機会費用は、現実のものであり、大きいものでもある。
公債産業にかかわる「家内産業企業」は 、公債の発行、トレード、金融工学、販売、管理、システム技術、会計、法律、および他の関連する支援機能のために資源を投入している。
こうした活動には、我々の教育システムが輩出する優秀な卒業生の一部が参加していて、高額の給料が支払われ、彼らは科学や社会研究、医学、工学などの他分野に行かないということになっている。
この労働力が別の活動に投入されていれば国民全体の利益にもっと貢献できるだろうとの議論があるだろう。
この本質的には分配(富のシャッフリング)活動であるものを政府が支援することにより、公債産業は魅力的な給料を提供することができ、しかも分配システムをゆがめる機能を働かせる。
公債の発行を止めた場合、この労働力は金融部門の内部で移動する動きもあろうが、政府が教育機関での研究のための資金水準に再び適切にコミットするようになればそこに魅力ある機会が生み出されよう。
結局のところ、公債市場が果たしている機能はごくわずかでしかなく、中央銀行の金利維持政策は、現在のサポートレート政策を維持することによってマイナスの影響を引き起こすことなく継続できるということになる。
国の繁栄のために公債市場がもたらす価値は機会費用以下である。正しく費用便益分析すれば、この市場は打ち切られるべきであると結論されよう。
結び
このエントリは、私が2001年にウォーレン・モズラーとともに英連邦債務調査局に提出した報告書を編集したものを部分的に引用している。その報告書は、政府が実際には黒字が増えているのに、なぜ債務を発行し続けるべきかを正当化しようとするものだった。 今日はこのへんで!