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家計になぞらえるのは誤りだ。家計の場合は持っている通貨を使って支出を賄わなければならないが、政府は課税や借り入れに先立って通貨を発行し支出していなければならない。通貨を発行する政府は、収入に制約されることはなく、ソルベンシー・リスクなしに赤字を無制限に維持することができる。
まとめ
• 家計のたとえは通貨発行政府に当てはまらない。
• 政府の支出や収入を、自分の家計の経験から分析しても意味は全くない。
• 政府が通貨を独占しているという特殊性は強調されなければならない。
財政赤字は良いことではなく、悪いことでもない。それらは非政府部門の黒字と会計的に等しい。非政府部門の支出意欲が利用可能な生産資源を完全に利用するには不十分な場合には財政赤字が必要になる。重要なのはそうした「状況」なのであり、収支の「数字」は社会経済的目標を達成するための手段に過ぎず目的ではない。
同様に、財政黒字は状況により良いことである場合もあれば悪いことである場合もある。純輸出や公共サービスの質や国民の所得水準が高く、それらが民間部門の貯蓄意欲を十分に支えている国では、名目総需要を抑制しインフレを回避するための財政黒字が必要となることがあり得る。
「財政赤字」 という言葉には問題点が二つある。第一に、財政赤字とは政府の政策であるかのように語られることが多い。しかし実際には経済全体の活動状況によって決まるものであり、政府のコントロールを超えているものだ。もし個人消費が低迷した場合、税収が減少し赤字は拡大する。財政収支の動きは多様なのだ。同じ赤字額であっても状況が全く異なるということがある。たとえば政府が完全雇用を維持するために、非政府部門の支出と貯蓄意欲を考慮して裁量的な財政政策決定を行ったために、ある財政赤字額になったとする。それと同じ財政赤字額が、政府以外の支出が減少し、自動安定化が働いたため税収が落ち、失業率が上昇した結果として実現することもある。消費が崩壊して民間の赤字が膨らんだときは歳出を削減するのではなく、裁量的に純支出を増やすのが正しい対応だ。政府の財政赤字予算ありきなのではない。赤字が生じるかどうか(そしてその結果に政府がどう対応すべきか)は、経済のパフォーマンスにかかっている。
第二に、赤字という言葉は否定的なニュアンスだ。この表現は会計的には正確なのだが、財政赤字は非政府部門の純金融資産にプラスの貢献をすることなのでとても誤解を招きやすい。政府赤字は非政府部門の純金融資産の唯一の源になるものだ。非政府部門の主体間のすべての取引の合計は0になる。この会計事実が意味することは、非政府部門が発行通貨を純貯蓄することを望んだならば、政府は必ず赤字ということになる。
国民経済計算から導かれる部門間バランス式は、この結果を一般化し、財政赤字(黒字)は常に非政府部門の黒字(赤字)と等しいことを表している。財政黒字は民間の富を破壊する。それは民間部門に富の流動化(現金を手に入れるための)を強要し、流動性(準備預金を引き落とす)を破壊するものであることから、デフレ圧となる。
財政黒字は(対外収支は赤字である場合)、国内の民間部門の債務を増加させるので、持続可能な長期成長戦略となることはあり得ない。最終的には国内の民間が純貯蓄を増やし、債務水準を引き下げようという段階に至るが、それは財政黒字の財政的歯止めと衝突し、景気の後退に追い込まれる。財政の循環対応のためのしくみが、赤字を(悪い)赤字に押し戻してしまうだろう。
まとめ
• ある財政状態の妥当性を合理的に評価するためには、それが生じる状況の理解が極めて重要だ。
• 財政赤字が非政府部門全体の貯蓄をもたらすものである。財政黒字が非政府部門の富を破壊するという事実は理解され、周知されるべきだ。
通貨を発行する政府は、自国の通貨を貯蓄しない。財政黒字の額は将来の公共支出を賄うための「公共貯蓄 」を表すものではない。そもそも貯蓄とは、家計といったの財政的に制約された非政府組織にだけあてはまる概念で、将来の支出可能性を高めるために現在の支出を放棄する行為のことである。
財政黒字は、将来の財政需要を満たすための政府の能力を追加的に提供するものではない。また財政赤字はその能力を減じるものではない。政府支出の制約は財政的なものではなく、政府が発行する通貨(誤謬7 を参照)で購入し得る実物資源によって制約される。
まとめ
• 通貨を発行する政府は、支出するために事前の資金を必要とせず、したがって「貯蓄」 する必要がない。
• 財政黒字(赤字)は、政府以外の部門の金融資産を破壊(増強)する。
財政収支が内生的とわかれば、現実の政府はある収支を目標とすることができないとわかる。民間の支出動向が変化すれば、政府の目標達成の努力が台無しになる。責任ある政府の戦略とは、景気循環の状況にかかわらず、非政府部門の支出動向は与えられるものとして、その上で完全雇用を達成するべく純支出を必要なレベルに調整することだ。
部門間バランス式から、「均衡財政主義 」とは対外赤字国の場合、国内の民間部門に対外赤字と同額の赤字を計上させるのと同義ということになる。これは持続可能な戦略にすることは不可能だ。
また景気循環に対応する(countercyclical)方針を採るならば、財政黒字を達成する必要がないことになる。景気循環に対応するという考え方をより正確に言えば、財政の収支でなく変化の方向性だ。経済がフル稼働状態にあり、民間の支出構成に不満がないならば、政府は裁量的に純支出を増やすべきではない。そうした拡大は、循環を強める(procyclical)。あるいは対外赤字が安定していて、民間部門が全体として貯蓄しているような場合は、安定的な財政赤字となるスタンスが望ましいことになる。
まとめ
• 公債比率や財政赤字の比率を基準にした財政ルールは、責任ある財政運営と整合的なものになりそうもない。
• 自国通貨を発行する政府は、完全雇用など機能面の目標を追求し、それに合わせて財政収支を調整する必要がある。
これは「誤謬2」の特別バージョンだ。通貨発行国政府はそもそも国債を売却する必要がないのだが、政府が国債を売却するとしても、公的借り手(政府)と民間の借り手が有限の貯蓄をめぐって競合することになるという事実はない。第一に、財政赤字は国民所得の増加させ、成長および民間貯蓄を刺激し強化する。第二に、政府が非政府部門に国債を売却する際に吸収する資金とは、元をたどれば過去の財政赤字が生み出した純金融資産から来たものだ。第三に、銀行の貸出は準備預金に制約されるものではなく、あくまで顧客の信用に対して行われるものだ。たとえ銀行の準備預金が不足している場合でも、銀行間市場で相互貸し借りが行われており、また銀行はいつでも中央銀行から準備預金を借りることができる。従って、政府が国債を銀行に売却することが銀行の貸出余力を低下させることはない。
さらに、財政赤字は金利を押し下げる圧力である。国債の発行は、赤字支出による銀行システムの超過準備を除去するために利付資産を投資家に提供することだが、これにより中央銀行がプラスの目標金利を維持することが可能なのである。財政赤字の環境下ではこうして準備預金を除去しないと、翌日物金利が低下し(銀行は利益を生まない準備金を取り崩そうと競争しているため)、中央銀行は銀行の超過準備預金にリターンを与えない限り目標金利を維持できないことになる。
まとめ
• 中央銀行は、金利目標政策の一環として国の債務を利用している。
• 公的債務は政府支出の財源にはならない。
• 通貨を発行する政府は借入する必要がない。
税の徴収は、さまざまな目的(民間部門の購買力の削減、タバコなどの有害な物品やサービスの消費の削減)のために行われるが、いずれも財政支出のためとはなっていない。
不換紙幣制度の下では通貨それ自体が価値を持たないが、政府は経済的・社会的なプログラムを促進するため、実物の財やサービスを非政府部門から政府部門に移転する必要がある。この文脈において、課税の主な機能とは、民間主体が納税義務と引き換えに、財やサービスを政府に提供するよう仕向けることにある。きわめて重要なのは、納税の資金は、過去の政府支出によりあらかじめ非政府部門に提供されたものであるということだ。
従って「政府支出が十分である状態」とは、「税によって生じた失業を解消する有給労働を提供できている状態」ということになる。
税は、非政府部門の購買力を奪うことにより総需要を減少させ、インフレを起こさないで使えるような実質資源のスペースを政府に提供する。これにより公共支出が可能になる。
重要なこととして、どの世代も税の水準を自由に選択できるということがある。なぜなら、政府の規模も、政府が実質資源の余地をどれだけ使うかも、政治のプロセスを通じてその世代の人々が決定する事柄だからだ。現世代や将来の世代が過去の財政赤字を返済する必要はないのである。
まとめ
• 進歩派は「納税者 」の金ではなく「公共の 」の金を要求するべき。
• 納税者は政府支出の資金を提供していない。
• 税は、政府が実物財とサービスを利用できるようにするため、非政府部門がそれらに支出する能力を減らすために必要なもの。
これは誤謬1、5、6とも関連している。保守派の政治家や経済評論家は「政府支出を抑制しないといつか資金が底をつく」としばしば主張する。彼らは家計のアナロジーを通じて人々の直感と経験に訴え、あたかも政府も家計と同じように収入の範囲内でやりくりしなければならないと主張することによりもっともらしく語る。このアナロジーは有権者の心に強く響く。なぜなら、私たち個人は自分の分を超えて無限の生活をすることはできないことを実感しているからだ。
しかし自国通貨を発行する政府にはもともと財政上の制約がない。政府は病院を建設したり、医療専門家に金を払うために資金を使い果たすことは決してない。ただし、施設を建設するための材料や施設を運営するための熟練労働者が入手できない可能性はある。したがって財政スペースは、その通貨で購入することができる実物財とサービスで決まる。財政スペースとは、政府が社会経済な義務を果たすために利用できる「手段 」である。通貨を発行している政府は、自国通貨で販売されているものならいつでも購入することができる。
この誤謬は、年金と医療システムが将来的に持続不可能になるという世代間(高齢化)問題とも関連している。通貨を発行する政府が、財政の制約によっていつか第一級の医療や年金が提供できなくなることはない。依存人口比率が上昇する問題とは、利用可能な労働者が減少する中で生産性を向上させることにより生活水準を維持するのに十分な実物財やサービスが確保されるかどうかという問題だ。これは財政的な制約ではない。
関連してもう一つ、公的債務比率がある閾値(しばしば80%と解釈される)を超えると、その通貨発行主体がデフォルトのリスクにさらされるという主張もある。しかし政府の債務が自国通貨建てのみであり、他の通貨との交換性を保証していない限り、デフォルト・リスクはゼロだ。
まとめ
• 財政スペースは、財務比率(公債比率等)では定まり得ない。
• 財政空間スペースとは、政府が社会経済プログラムを遂行するために利用可能な実物の資源の範囲を指す。
• 政府が自国通貨で発行した債務にデフォルトのリスクはない。
政府支出に限らず、名目総需要が経済の実質的な吸収力を上回るようになれば、すべての支出(政府にせよ民間にせよ)はインフレ的になる。生産に投入できる有休資源(たとえば失業)が存在するときには、政府支出が増加してもインフレ圧力とはならない。
関連して、政府が国債を中央銀行に直接発行する、いわゆる「紙幣を刷る 」行為は通貨の価値を下げるとか、国債を民間部門に発行する場合は財政赤字でもインフレリスクが下がるという主張がある。どちらも正しくない。第一に、財政赤字に伴って同額の国債を発行する場合のインフレリスクは国債を発行しない場合と比較して違いはない。民間の国債の購入は、民間が金融資産をどのようなポートフォリオで保有しようと決めるかにかかっている。民間が、国債購入に使う資金を財やサービスに振り向ければ、結果的に財政赤字が縮小するだろう。第二に、中央銀行による信用供与は(国債の対価としての)がインフレ圧力になるのは、財政スペースがない場合だけだ(誤謬7 を参照)。
1920年代のドイツや2000年代初期のジンバブエといったハイパーインフレーションの事例は、財政赤字がインフレを引き起こすという主張をサポートするものではない。どちらの事例でもインフレが起こる前に経済の供給能力が大きく毀損していた。
まとめ
• 経済が完全雇用状態にあるときには、すべての支出(民間支出にせよ政府支出にせよ)がインフレリスクを伴う。国債の発行は、公共支出に伴うインフレリスクを軽減しない。
• 政府支出は、使われていない資源が生産的に利用されるようになるよう努められるべきである。
• 政府の公共支出の上限は、利用可能な財政スペースで定義される。財政スペースは、遊休資源をどれだけ利用できるかで定まる。
財政赤字と政府の規模とは関係がない。たとえ規模の小さな政府であっても、非政府部門全体に貯蓄意欲があり、政府の政策目標が国民所得に対応した完全雇用水準の維持であるならば、継続的に財政赤字を計上する必要がある。
最適な政府の規模は経済理論では決まらない。小さな政府をめざすことは、純粋にイデオロギー上のスタンスであり経済理論に立脚するものではない。政府の規模とは、モノやサービス及びインフラの公的な供給に対する国民の選好を反映したものである。
まとめ
• 政府の規模は決めるのは経済的必要性でなく、政治的な選択であるで。
• いかに小さな政府であっても、完全雇用を維持するために継続的な財政赤字になるのが通常である。