ここは「MMT日本語リンク集」(みてねー)の番外サイト。 MMT(現代金融理論)「論」をウオッチしています。 良い紹介、よい批評を読みたいよね!
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先週催されたロンドンでのイベントでは、政府は公債を発行するべきではないという話をした。公債発行の機会費用は利益を上回るからだ。現代金融理論(MMT)の目で見れば、財政赤字を政府債務と一致させる特段の必要性はなく、財政赤字は、Overt Monetary Financing(OMF)と呼ぶ金融オペレーションで運営されるべきなのだ。驚いたのだが、聴衆から政府債務を発行し続けるべきではないかという声も出た。私の理解が正しければ、それは労働者が将来のために貯蓄するため安全な避難所を政府が提供するためという理由からの発言だ。つまり、労働者が苦労して得た貯蓄を保持しておくのに使用できる無リスク資産を提供するためだけのために、公債の発行にまつわる複雑な仕組みを維持するというご意見だ。その目的のためであるならば政府はその通貨発行能力を、公的に運営する国民貯蓄基金に行使するとした方がはるかにシンプルになる。債務は一切不要なのだ。
アバ・ラーナーの機能的財政論が出発点になる。この論はMMTの発展に大きな影響を与えたものの一つだ。ラーナーは、政府が債務を発行するのはどのようなときであるべきかの指針を提示した。
ラーナーは、通貨発行政府の責任とは、経済における総支出が完全雇用と確実に一致する水準に維持されるようにすることにあると説明している。
政府は、支出と徴税の方針を変化させることにより、各時点の生産性水準において、仕事をしたいすべての人に仕事を提供するのに十分な売上を生み出すようにすることでその責任を果たす。
ラーナーはまた、政府が責任を果たさない場合よりも責任を果たした場合の方が財政赤字が多くなりがちだが、それは「別に悪いこと」ではないとの理解をしていた。
1943年の論文、機能的財政と連邦債務の中でラーナーは次のように書いている。
…中心となる考えはこうだ。政府の財政政策、支出と徴税、債務の借入と返済、新貨幣の発行と回収、これらの行動はみな経済に及ぼす影響のみを見据えて行われるべきだ。健全であるか否かという、根強い伝統的な教義に拠ってはならない。この、ただ効果のみによって判断するという原則は、人間活動に関する他の多くの分野でも適用されてきたものだが、スコラ哲学に異議を申し立てた科学の方法として知られているものだ。ある財政措置を判断するときは、それが経済の中でどのように機能するのかによるべし。この原則を機能的財政と呼ぶ…
政府は、経済における総支出が、現在の価格で完全雇用水準の生産高を購入するのに十分であるものより多くも少なくもならないように支出と課税の割合を調整するべきである。それが、赤字、借入の増加、「貨幣の印刷」などを意味するとしても、そのこと自体は良くも悪くもなく、単に完全雇用と物価安定の望ましい目的を達成するための手段に過ぎない。
[Lerner, A. (1943) ‘Functional Finance and the Federal Debt’, Social Research, 10(1), 38–51].
政府が焦点を当てるべきは赤字の額ではなく、完全雇用によってもたらされる繁栄と抱合だ。
彼はまた、世に新しいアイデアが発表されると人々は「ひどい結果になるというおとぎ話に容易に恐怖する」ことを理解していた。
この恐怖は、教育の欠如、つまり実際に経済がどのように機能しているかを人々が理解できないようにしておくことによって増幅される。
新自由主義者は、本来は賢明であり実行可能でもある経済問題の説明を悪魔呼ばわりすることでこの恐怖を拡大させる。
彼らは、正しい考えを恐怖やタブーの領域に棚上げしておけばそれらが政治的に受け入れられなくなる可能性が高まると知っている。
この戦略が彼らのイデオロギーアジェンダを前進させる。政府の財政政策を導くための、あるべき基本的な規範はラーナーの言では「極端なまでに単純」であり「その単純さこそが、うますぎる話では?と国民に疑わせてしまう原因だ」)。
新自由主義者は、通貨を発行する政府に実行できる本当の選択肢を国民が理解しないようにしておくことに強い関心を払っており、こうした疑いを煽る。
新自由主義者は、これら単純な真理の替えて神話や比喩を使う。そうした比喩は公衆と共鳴することで「現実」というものになると彼らは知っているのだ。
ではラーナーは債務の発行についてどう言っていたのだろう?
政府が「常に妥当な水準の需要」を維持し「最適な投資額を誘導する」金利を維持するという文脈だ。
In this Biography of Lerner you read the following (pages 218-19): このラーナーの伝記には次のようにある(218-19)
1943年、ラーナーは財政政策への新しいアプローチを発表した論文「機能的財政と連邦債務」を発表した。 彼は、従来の財政学の知恵は優れた家計管理の原則と道徳に基づいていると指摘した。まだ持っていないものは使わない - 「経済」という単語の語源はギリシャ語で家庭を表す言葉oikosだ。
これに対しラーナーは、ケインズの立場から赤字支出の概要を要約した上で、政府は従来のような道徳に依るのではなく、行為の結果だけを考慮すべきだと主張した。
政府の支出および課税の目的は、現在の物価水準で完全雇用と両立できる水準になるように経済全体の支出を維持すること、つまり、失業もインフレもないようにすることことだと彼は述べている。
その際政府は財政赤字や債務を気にするべきではない。第二に、借金や返済をするのは、国民が保有する有価証券と貨幣の割合を変更したい場合に限るべきだ。
この割合を変更すると金利が上昇または低下するため、信用による購入や投資が抑制または促進される。財政赤字をどう賄うかだけの問題ならば紙幣を印刷せよとラーナーは提唱した。
第三に、第一、第二の原則の成果を実現するために、政府は必要に応じて貨幣を循環に加えるか、撤退させる(破壊する)べきであると。
このように、政府が債務を発行すべき唯一の理由は「国民が保有する有価証券と貨幣の割合」を変更したい場合に限っている。政府には歳入を増やす必要がないことを明らかに認識している。
ラーナーは1943年の記事で(355ページ)、政府が負債を発行するのは「そうしないと金利が低すぎてしまう」場合のみであるべきと述べている。皆さんも、資金調達に必要だから「借りる」のではなく、それは金融行為なのだとわかり始めて来ただろう。
彼は1951年の著書(10~11ページ)でこのテーマをさらに進めている。
赤字のために…貨幣を支出し…通貨(および銀行の準備金)のストックを増やし続けると、金利が下がり続ける。 政府は何とかして自身の支出による資金ストックの増加によって金利が押し下げられるのを防がなければならない...。そのためには明らかな方法がある。政府は支出した貨幣を借り戻せばよい。(強調は原文)
これはMMTの基本的な洞察の一つだ。すなわち、債務の発行は、純支出(財政赤字)によって生じた過剰な銀行の準備預金を中央銀行が排出するために有効な手段である。
それが昨日のエントリの話題だった。
政府が自ら支出したものをただ借り戻す、あるいは中央銀行が夜間の準備預金に利息を支払う。これらをしなければ金利はゼロ(あるいは中央銀行が支払うサポートレート)になる。
そして、進歩主義者(財政ハト派)―「組織的繁栄の支持者」―に対しラーナーは1951年の著書(15ページ)の中でこう言っている。
彼らは臆病心から、伝統的な教義の偉い支持者に衝撃を与えかねないことを言うことをためらい、新しい学説を、あたかもそれが古い学説に見えるよう偽装したい誘惑に駆られる。しかしこれはほとんど役に立たない。新しい学説が伝統の支持者の目に無害に見えるようにしようとすると、自分たちの主張が損害を被るからだ。国家債務の規模はそれほど大きな問題ではないと彼らは言わず… [そして] …予算は不均衡でなければならないとも言わず、繁栄の達成と比較すれば債務が微々たる問題でしかないという主張をしない。彼らは年次予算だの循環対応予算だの資本予算だの、特別な予算という入念なシステムを入れることによって不均衡予算(従って債務規模)を偽装する提案をする。
MMTは、政策金利はゼロに維持されるべきであると提言している。それは公債を非政府部門の手に委ね蓄積させる必要がないからだ。
そもそも公債を発行する理由は何か?
たとえ完全な「市場志向」アプローチを採ったとしても公債の発行を説得的に擁護できる理屈はない。
労働市場を始めとしたいくつかの市場は周期の対称性がなく負のショックが持続するため、いったん失われた進出と雇用を取り戻すコストが高く、政府の介入が不可欠である。
対して一般に金融市場は、適切な規制の枠組みの中で初めて運営が認められており、競争理論で論じられるパラメータにかなり該当し、政府の直接的な介入が無くとも合理的に効率的な成果を生み出すことができる。
政府による民間市場への介入は重大な問題なのであるから、適切な費用便益分析によって正当化されるものでなければならない。
現代の金融システムは信用供与を通じて実体経済と結びついている。家計も企業も信用への安定的なアクセスの恩恵を受けている。
金融の安定を達成するためには:(a)主要な金融機関は安定していなければならず、業務の中断や外部からの支援を受けることなく契約上の義務を履行できるという確信があり、(b)主要な市場が安定していて、ファンダメンタルズを反映した価格での取引がサポートされていなければならない。
ファンダメンタルズに変化がない場合は、短期に大きな変動があるべきではない。
金融の安定には、広範な経済的損害を引き起こさない水準で価格が変動している必要がある。物価は経済のファンダメンタルズの変化を反映して動くし、動くべきものである。 金融の不安定は、資産価格が経済のファンダメンタルズの水準から大きく乖離し、実体経済にダメージを与えることで生じる。
金融市場において、思慮を欠いた投機から実態部門には影響を与えないような破綻、あるいは適切な流動性供給によって実態部門から切り離すことができる破綻が発生したとしても、それは問題ではない。
安定した金融システムの基本的な要件は以下のごとくだろう。
1.明確に定義された所有権;
2.中央銀行による決済システムの監督;
3.金融機関の自己資本比率規制;
4.銀行預金者の保護;
5.流動性危機において、民間金融機関が支払能力のある借り手への融資を拒否した場合の最後の貸し手;
6.民間の投資家・債権者間の協調の失敗を改善するための機関;
7.破綻した機関への出口戦略の提供。
以上の要件の一部は民間機関によっても提供され得るが、すべて政府あるいはその指定代理人に属す。
そして、これらの要件はいずれも国債市場の有無とは関係がない。
私有財は売り手と買い手がそれぞれの利ざやを反映した価格で取引する市場において交換される。
商品やサービスの所有権は合意された価格で売り手から買い手に移転する。
私有財は、排他的(つまり取引の当事者以外はその消費を楽しむことができない)かつ競合的(つまり他の潜在的な消費者がその商品やサービスを利用することを否定している)である。
対して公共財は排他的でも競合的でもない。民間市場には公共財を生産したり購入したりするインセンティブがないため、民間市場だけで社会的に最適な量の公共財を供給することは不可能だ(フリーライダー問題)。
社会的に最適な供給が確保されるためには、集合行為または政府によって公共財が生産または調整されていなければならない。
我々は、安定な金融システムは公共財の定義を満たしており、政府の正当な責任であると結論する。
持続的に公債を発行することを支持する議論の多くは、結局のところ、企業部門が公的な事業をするためにはその投資家にリスクフリーな国債が要請されるとの議論に還元される。取引からの収益、手数料、管理料、コンサルティング・サービスおよび調査手数料だけではなくそれも必要なのだという。
皮肉なことに、この議論は金融セクターの同じ利害関係者がふだん一口にするレトリックと矛盾している。彼らは常に、政府の介入を減らし、民営化を進め、福祉の削減を進め、様々な公益事業や労働市場を含む市場全般の規制緩和を緊急に行う必要があると言っている。
特に政府による民間市場の価格への介入は、効率性の観点から経済学者の批判を浴びる。
ところが公債の発行は、金利市場における政府の価格介入の一形態である。
立証責任があるのは公債発行の支持者の側だ。国債市場は政府の介入なしには運営することが不可能だが、その政府支援がないと、上述したマクロ的な優先事項(失業その他)に有害な結果がもたらされるとの主張を維持しなくてはならない。
プライシングの基準として
公債の発行を支持する一つの議論としては、国債のイールドカーブが金融市場におけるリスクフリー資産のベンチマークとして他の債務証券の価格の基準になる、というものがある。
明らかに別の複数の選択肢が存在する。
1. 市場は、類似した性質を持つ他の証券の価格を参考に相対的な価格付けをすることができる。
2. 市場参加者は、金利スワップ曲線を基準に証券の価格付けをすることができる。
現に市場参加者は金利スワップ・カーブを使って証券価格を決定している。金利の構造は需要と供給で決まる。債券の買い手と売り手が価格を提示し合って決めるのだ。
公債の発行論者は、政府が市場に介入しない限り、債券の持ち主と買い手が価格をマッチングさせることができないと本気で主張するのだろうか。
政府の介入なしに価格を適切に決定できるほどの参加者、情報、競争力が金利市場には備わっていないとおっしゃる?
どちらの主張も、その正当性の立証は疑わしい。後に記すような、公債発行に起因すマクロ的な高コストを打ち消しうるものではない。
金融リスクの管理
民間のトレーダーが金融リスク、特に金利リスクの管理のために普及しているデリバティブ市場が既発国債に支えられているという議論もある。
ではそこでの金利リスクとは実際どのくらいのものなのか。懸念される変化がどれだけの経済的コストをもたらすというのか。
対しては詳細には立ち入らず、公債がどのようなビジネスで使用される 「必要」 があるかをただ挙げるのがポイントだ。公債の発行は、実際には投資行動を奨励しているのではなく、投機行動を支援奨励しているのだ。
金融市場の投機にも健全なものはある(例えば、メーカーの為替リスク軽減をサポ―トするような)。しかしそれは毎日の金融市場での取引のごく一部に過ぎない。
ではこうした、国民の幸福に特に資するものではない特定のビジネスを支援することは適切な公共政策なのだろうか。
以上の文脈から、私は公債の発行は企業福祉だと言っている。
またMMTは金融市場を簡素化し、国民に実質的な利益をもたらさない投機行動は段階的に廃止していくいことを提唱していることも理解されたい。
長期投資のための資産として
木曜日のロンドンでなされた議論だ。この議論は大ざっぱに言えば、労働者はその貯蓄をリスクのない資産として保持されると期待する権利があり、公債の発行はそのための資産を提供するというものだ。
私は労働者が安全な方法で貯蓄(将来のリスク管理)できるようにすべきであるという原則を支持するものだ。しかしそれは公債の発行による巨額の企業福祉を正当化できるものではない。
この議論をより正確に言えば、老齢退職年金や生命保険会社は公債を購入できないと、適切な資産償還と長期負債とのマッチングが困難になるという論だ。
さらに、ドル建て資産を保有する労働者にとっては公債が廃止されると貯蓄の投資先がなくなるという主張だ。退職後のプランが不確実かつ高リスクになるという話になる。
理解されていないのは、公債が政府にとって年金になっていることだ。
民間部門における投資が、民間主体が発行する負債ではなく、政府年金によってなされることを、公債発行の支持者は本当に望んでいるのだろうか?
この論点は、国債がポートフォリオ分散化を促進するという主張にも当てはまる。私たちは民間で利潤を追求している投資家に政府年金を提供したいだろうか?
政府の直接的な支払いによって市場の投資機能の阻害し、民間部門の主体を助成するこうした行為が為されるのは、民間市場が失敗し実体部門の産出(雇用)や価格の安定が脅かされた場合のみに限定されるべきだ。
そして退職者助成の方法としては、年金サポートをも包含するような、より豊かな公衆福祉制度を政府が直接提供する方法との比較をするべきだ。
それはともかく、労働者にリスクフリーの貯蓄手段を提供するためのより効果的な方法もある。政府が通貨発行能力を行使して、完全な保証付きの国民貯蓄基金を創設することだ。ファンドに貯蓄を委ねるよりも有利な収益を提供することができる。
公債の発行(および、それに伴う企業福祉や政府債務の管理機関)は必要がないのだ。
政府はいつでも名目債務を返済することができる。
安全な避難先として
国債はまた、金融不安のときに投資家に「安全な避難所」を提供するとされている。
「質への逃避」という議論だが、投資家が他の資産の資本損失を回避する手段として無リスクの国内資産を利用できることがマクロ経済にとって有益であるという論だ。
しかし国債とは、上述の通り政府の年金を通した助成金であることとは別に、他資産と直接競合するものでもある。国債の存在によって他の資産の価格は安くなっており、さらに「質への逃避」が可能であることが、問題を悪化させる効果につながっている。
貨幣経済においては投資家は、現金または銀行預金を持つことによって、常にマネーのバランスを維持することができる。
預金保険の利用が普及しているため、銀行預金は実質的に国債と同等である。
資産を預金に移すことは「リスク」を銀行に委ねたことであり、中央銀行の規制下にある資産を選んだことに他ならない。
利益最大化を目指す民間主体はこうしてリスク-リターンを勘案して預金を選ぶ意思決定ができることになるが、政府の年金を歪める市場という避難場所を設けることで「さらに保護される」べきであるという議論を正当化するマクロ経済的な理由は存在しない。
さらに言えば、「質への逃避」をしたときに、投資家が持つ様々な固定金利債券の相対価格は変化し得るものの、その総量は変わらない。何しろ投資家達は既存の公債をめぐって競争するだけなのだから。
マクロレベルで見て、このプロセスで総リスクが軽減したりはしないのだ。
金融政策のツール
以前のエントリで、中央銀行は超過準備金に金利を支払うことによってえ金利政策目標を維持できることを説明した。
中央銀行はこの目的のために公債の存在を必要としてはいない。
公債の発行を正当化する議論はための議論は他にもいろいろある。それは皆、煎じ詰めれば、投機家がリスクフリー資産を求めているからということになる。
では公債発行にかかる経済的なコストはどのくらいなのだろう?
ある資源を使用する活動の実際のコストを測定するためには、その資源を使用しない場合の機会費用を求めることになる。
公債市場の運営は、他の場所で利用可能な実物資源が充てられている。
仮に公債市場が存在しないような経済状況を評価するのは困難ではあるが、われわれの考え方の構造を示すため、いくつか指摘できることがある。
公債の「産業」において直接的または間接的に雇用されている労働力の機会費用は、現実のものであり、大きいものでもある。
公債産業にかかわる「家内産業企業」は 、公債の発行、トレード、金融工学、販売、管理、システム技術、会計、法律、および他の関連する支援機能のために資源を投入している。
こうした活動には、我々の教育システムが輩出する優秀な卒業生の一部が参加していて、高額の給料が支払われ、彼らは科学や社会研究、医学、工学などの他分野に行かないということになっている。
この労働力が別の活動に投入されていれば国民全体の利益にもっと貢献できるだろうとの議論があるだろう。
この本質的には分配(富のシャッフリング)活動であるものを政府が支援することにより、公債産業は魅力的な給料を提供することができ、しかも分配システムをゆがめる機能を働かせる。
公債の発行を止めた場合、この労働力は金融部門の内部で移動する動きもあろうが、政府が教育機関での研究のための資金水準に再び適切にコミットするようになればそこに魅力ある機会が生み出されよう。
結局のところ、公債市場が果たしている機能はごくわずかでしかなく、中央銀行の金利維持政策は、現在のサポートレート政策を維持することによってマイナスの影響を引き起こすことなく継続できるということになる。
国の繁栄のために公債市場がもたらす価値は機会費用以下である。正しく費用便益分析すれば、この市場は打ち切られるべきであると結論されよう。
結び
このエントリは、私が2001年にウォーレン・モズラーとともに英連邦債務調査局に提出した報告書を編集したものを部分的に引用している。その報告書は、政府が実際には黒字が増えているのに、なぜ債務を発行し続けるべきかを正当化しようとするものだった。 今日はこのへんで!
家計になぞらえるのは誤りだ。家計の場合は持っている通貨を使って支出を賄わなければならないが、政府は課税や借り入れに先立って通貨を発行し支出していなければならない。通貨を発行する政府は、収入に制約されることはなく、ソルベンシー・リスクなしに赤字を無制限に維持することができる。
まとめ
• 家計のたとえは通貨発行政府に当てはまらない。
• 政府の支出や収入を、自分の家計の経験から分析しても意味は全くない。
• 政府が通貨を独占しているという特殊性は強調されなければならない。
財政赤字は良いことではなく、悪いことでもない。それらは非政府部門の黒字と会計的に等しい。非政府部門の支出意欲が利用可能な生産資源を完全に利用するには不十分な場合には財政赤字が必要になる。重要なのはそうした「状況」なのであり、収支の「数字」は社会経済的目標を達成するための手段に過ぎず目的ではない。
同様に、財政黒字は状況により良いことである場合もあれば悪いことである場合もある。純輸出や公共サービスの質や国民の所得水準が高く、それらが民間部門の貯蓄意欲を十分に支えている国では、名目総需要を抑制しインフレを回避するための財政黒字が必要となることがあり得る。
「財政赤字」 という言葉には問題点が二つある。第一に、財政赤字とは政府の政策であるかのように語られることが多い。しかし実際には経済全体の活動状況によって決まるものであり、政府のコントロールを超えているものだ。もし個人消費が低迷した場合、税収が減少し赤字は拡大する。財政収支の動きは多様なのだ。同じ赤字額であっても状況が全く異なるということがある。たとえば政府が完全雇用を維持するために、非政府部門の支出と貯蓄意欲を考慮して裁量的な財政政策決定を行ったために、ある財政赤字額になったとする。それと同じ財政赤字額が、政府以外の支出が減少し、自動安定化が働いたため税収が落ち、失業率が上昇した結果として実現することもある。消費が崩壊して民間の赤字が膨らんだときは歳出を削減するのではなく、裁量的に純支出を増やすのが正しい対応だ。政府の財政赤字予算ありきなのではない。赤字が生じるかどうか(そしてその結果に政府がどう対応すべきか)は、経済のパフォーマンスにかかっている。
第二に、赤字という言葉は否定的なニュアンスだ。この表現は会計的には正確なのだが、財政赤字は非政府部門の純金融資産にプラスの貢献をすることなのでとても誤解を招きやすい。政府赤字は非政府部門の純金融資産の唯一の源になるものだ。非政府部門の主体間のすべての取引の合計は0になる。この会計事実が意味することは、非政府部門が発行通貨を純貯蓄することを望んだならば、政府は必ず赤字ということになる。
国民経済計算から導かれる部門間バランス式は、この結果を一般化し、財政赤字(黒字)は常に非政府部門の黒字(赤字)と等しいことを表している。財政黒字は民間の富を破壊する。それは民間部門に富の流動化(現金を手に入れるための)を強要し、流動性(準備預金を引き落とす)を破壊するものであることから、デフレ圧となる。
財政黒字は(対外収支は赤字である場合)、国内の民間部門の債務を増加させるので、持続可能な長期成長戦略となることはあり得ない。最終的には国内の民間が純貯蓄を増やし、債務水準を引き下げようという段階に至るが、それは財政黒字の財政的歯止めと衝突し、景気の後退に追い込まれる。財政の循環対応のためのしくみが、赤字を(悪い)赤字に押し戻してしまうだろう。
まとめ
• ある財政状態の妥当性を合理的に評価するためには、それが生じる状況の理解が極めて重要だ。
• 財政赤字が非政府部門全体の貯蓄をもたらすものである。財政黒字が非政府部門の富を破壊するという事実は理解され、周知されるべきだ。
通貨を発行する政府は、自国の通貨を貯蓄しない。財政黒字の額は将来の公共支出を賄うための「公共貯蓄 」を表すものではない。そもそも貯蓄とは、家計といったの財政的に制約された非政府組織にだけあてはまる概念で、将来の支出可能性を高めるために現在の支出を放棄する行為のことである。
財政黒字は、将来の財政需要を満たすための政府の能力を追加的に提供するものではない。また財政赤字はその能力を減じるものではない。政府支出の制約は財政的なものではなく、政府が発行する通貨(誤謬7 を参照)で購入し得る実物資源によって制約される。
まとめ
• 通貨を発行する政府は、支出するために事前の資金を必要とせず、したがって「貯蓄」 する必要がない。
• 財政黒字(赤字)は、政府以外の部門の金融資産を破壊(増強)する。
財政収支が内生的とわかれば、現実の政府はある収支を目標とすることができないとわかる。民間の支出動向が変化すれば、政府の目標達成の努力が台無しになる。責任ある政府の戦略とは、景気循環の状況にかかわらず、非政府部門の支出動向は与えられるものとして、その上で完全雇用を達成するべく純支出を必要なレベルに調整することだ。
部門間バランス式から、「均衡財政主義 」とは対外赤字国の場合、国内の民間部門に対外赤字と同額の赤字を計上させるのと同義ということになる。これは持続可能な戦略にすることは不可能だ。
また景気循環に対応する(countercyclical)方針を採るならば、財政黒字を達成する必要がないことになる。景気循環に対応するという考え方をより正確に言えば、財政の収支でなく変化の方向性だ。経済がフル稼働状態にあり、民間の支出構成に不満がないならば、政府は裁量的に純支出を増やすべきではない。そうした拡大は、循環を強める(procyclical)。あるいは対外赤字が安定していて、民間部門が全体として貯蓄しているような場合は、安定的な財政赤字となるスタンスが望ましいことになる。
まとめ
• 公債比率や財政赤字の比率を基準にした財政ルールは、責任ある財政運営と整合的なものになりそうもない。
• 自国通貨を発行する政府は、完全雇用など機能面の目標を追求し、それに合わせて財政収支を調整する必要がある。
これは「誤謬2」の特別バージョンだ。通貨発行国政府はそもそも国債を売却する必要がないのだが、政府が国債を売却するとしても、公的借り手(政府)と民間の借り手が有限の貯蓄をめぐって競合することになるという事実はない。第一に、財政赤字は国民所得の増加させ、成長および民間貯蓄を刺激し強化する。第二に、政府が非政府部門に国債を売却する際に吸収する資金とは、元をたどれば過去の財政赤字が生み出した純金融資産から来たものだ。第三に、銀行の貸出は準備預金に制約されるものではなく、あくまで顧客の信用に対して行われるものだ。たとえ銀行の準備預金が不足している場合でも、銀行間市場で相互貸し借りが行われており、また銀行はいつでも中央銀行から準備預金を借りることができる。従って、政府が国債を銀行に売却することが銀行の貸出余力を低下させることはない。
さらに、財政赤字は金利を押し下げる圧力である。国債の発行は、赤字支出による銀行システムの超過準備を除去するために利付資産を投資家に提供することだが、これにより中央銀行がプラスの目標金利を維持することが可能なのである。財政赤字の環境下ではこうして準備預金を除去しないと、翌日物金利が低下し(銀行は利益を生まない準備金を取り崩そうと競争しているため)、中央銀行は銀行の超過準備預金にリターンを与えない限り目標金利を維持できないことになる。
まとめ
• 中央銀行は、金利目標政策の一環として国の債務を利用している。
• 公的債務は政府支出の財源にはならない。
• 通貨を発行する政府は借入する必要がない。
税の徴収は、さまざまな目的(民間部門の購買力の削減、タバコなどの有害な物品やサービスの消費の削減)のために行われるが、いずれも財政支出のためとはなっていない。
不換紙幣制度の下では通貨それ自体が価値を持たないが、政府は経済的・社会的なプログラムを促進するため、実物の財やサービスを非政府部門から政府部門に移転する必要がある。この文脈において、課税の主な機能とは、民間主体が納税義務と引き換えに、財やサービスを政府に提供するよう仕向けることにある。きわめて重要なのは、納税の資金は、過去の政府支出によりあらかじめ非政府部門に提供されたものであるということだ。
従って「政府支出が十分である状態」とは、「税によって生じた失業を解消する有給労働を提供できている状態」ということになる。
税は、非政府部門の購買力を奪うことにより総需要を減少させ、インフレを起こさないで使えるような実質資源のスペースを政府に提供する。これにより公共支出が可能になる。
重要なこととして、どの世代も税の水準を自由に選択できるということがある。なぜなら、政府の規模も、政府が実質資源の余地をどれだけ使うかも、政治のプロセスを通じてその世代の人々が決定する事柄だからだ。現世代や将来の世代が過去の財政赤字を返済する必要はないのである。
まとめ
• 進歩派は「納税者 」の金ではなく「公共の 」の金を要求するべき。
• 納税者は政府支出の資金を提供していない。
• 税は、政府が実物財とサービスを利用できるようにするため、非政府部門がそれらに支出する能力を減らすために必要なもの。
これは誤謬1、5、6とも関連している。保守派の政治家や経済評論家は「政府支出を抑制しないといつか資金が底をつく」としばしば主張する。彼らは家計のアナロジーを通じて人々の直感と経験に訴え、あたかも政府も家計と同じように収入の範囲内でやりくりしなければならないと主張することによりもっともらしく語る。このアナロジーは有権者の心に強く響く。なぜなら、私たち個人は自分の分を超えて無限の生活をすることはできないことを実感しているからだ。
しかし自国通貨を発行する政府にはもともと財政上の制約がない。政府は病院を建設したり、医療専門家に金を払うために資金を使い果たすことは決してない。ただし、施設を建設するための材料や施設を運営するための熟練労働者が入手できない可能性はある。したがって財政スペースは、その通貨で購入することができる実物財とサービスで決まる。財政スペースとは、政府が社会経済な義務を果たすために利用できる「手段 」である。通貨を発行している政府は、自国通貨で販売されているものならいつでも購入することができる。
この誤謬は、年金と医療システムが将来的に持続不可能になるという世代間(高齢化)問題とも関連している。通貨を発行する政府が、財政の制約によっていつか第一級の医療や年金が提供できなくなることはない。依存人口比率が上昇する問題とは、利用可能な労働者が減少する中で生産性を向上させることにより生活水準を維持するのに十分な実物財やサービスが確保されるかどうかという問題だ。これは財政的な制約ではない。
関連してもう一つ、公的債務比率がある閾値(しばしば80%と解釈される)を超えると、その通貨発行主体がデフォルトのリスクにさらされるという主張もある。しかし政府の債務が自国通貨建てのみであり、他の通貨との交換性を保証していない限り、デフォルト・リスクはゼロだ。
まとめ
• 財政スペースは、財務比率(公債比率等)では定まり得ない。
• 財政空間スペースとは、政府が社会経済プログラムを遂行するために利用可能な実物の資源の範囲を指す。
• 政府が自国通貨で発行した債務にデフォルトのリスクはない。
政府支出に限らず、名目総需要が経済の実質的な吸収力を上回るようになれば、すべての支出(政府にせよ民間にせよ)はインフレ的になる。生産に投入できる有休資源(たとえば失業)が存在するときには、政府支出が増加してもインフレ圧力とはならない。
関連して、政府が国債を中央銀行に直接発行する、いわゆる「紙幣を刷る 」行為は通貨の価値を下げるとか、国債を民間部門に発行する場合は財政赤字でもインフレリスクが下がるという主張がある。どちらも正しくない。第一に、財政赤字に伴って同額の国債を発行する場合のインフレリスクは国債を発行しない場合と比較して違いはない。民間の国債の購入は、民間が金融資産をどのようなポートフォリオで保有しようと決めるかにかかっている。民間が、国債購入に使う資金を財やサービスに振り向ければ、結果的に財政赤字が縮小するだろう。第二に、中央銀行による信用供与は(国債の対価としての)がインフレ圧力になるのは、財政スペースがない場合だけだ(誤謬7 を参照)。
1920年代のドイツや2000年代初期のジンバブエといったハイパーインフレーションの事例は、財政赤字がインフレを引き起こすという主張をサポートするものではない。どちらの事例でもインフレが起こる前に経済の供給能力が大きく毀損していた。
まとめ
• 経済が完全雇用状態にあるときには、すべての支出(民間支出にせよ政府支出にせよ)がインフレリスクを伴う。国債の発行は、公共支出に伴うインフレリスクを軽減しない。
• 政府支出は、使われていない資源が生産的に利用されるようになるよう努められるべきである。
• 政府の公共支出の上限は、利用可能な財政スペースで定義される。財政スペースは、遊休資源をどれだけ利用できるかで定まる。
財政赤字と政府の規模とは関係がない。たとえ規模の小さな政府であっても、非政府部門全体に貯蓄意欲があり、政府の政策目標が国民所得に対応した完全雇用水準の維持であるならば、継続的に財政赤字を計上する必要がある。
最適な政府の規模は経済理論では決まらない。小さな政府をめざすことは、純粋にイデオロギー上のスタンスであり経済理論に立脚するものではない。政府の規模とは、モノやサービス及びインフラの公的な供給に対する国民の選好を反映したものである。
まとめ
• 政府の規模は決めるのは経済的必要性でなく、政治的な選択であるで。
• いかに小さな政府であっても、完全雇用を維持するために継続的な財政赤字になるのが通常である。
彼女はインタビューで言っている。「幼い頃からそこで何が起こっているかに興味がありました」
のちにケルトンは経済学を学び、2008年にカンザス州下院議員に立候補して落選した以外は、学問の世界でキャリアを積んだ。2015年、バーモント州選出のバーニー・サンダース上院議員が現代貨幣理論に関する彼女の研究に関心を寄せた際、彼女は自身のアイデアを学術的な場所から公共政策の領域に移す機会を得ることになった。当時、サンダースは大統領選への出馬を検討していた。
「そんな機会に出会うチャンスがどれくらいありますか?」と彼女は言った。「サイコロを振ったのだと思います。」
当時ミズーリ大学カンザスシティ校の経済学部長を務めていたケルトン氏は、上院予算委員会で働くためワシントンに移り、そこで二年を過ごした。その後、サンダースの大統領選でのアドバイザーとなり、連邦最低賃金を時給15ドルへの引き上げや、単一支払者制度の医療保険制度 (非公式には 「メディケア・フォー・オール」を導入する提案について学界の支持を集めた。
「彼女は公共志向が強く、経済政策を説明したり、それに注意を向けさせる才能がある経済学者ですね。」と語るのは、ブルッキングス研究所の上級研究員でジョージ・ワシントン大学のサラ・ビンダー教授。
「彼女は、ただ学問の世界と政策の世界をまたぐだけではなく—シンクタンクと話すだけでなく、大統領候補と話せるのです。」
現代貨幣理論の基礎は、貨幣を「国家の創造物」と呼んだ経済学者アバ・ラーナーなどにより1930年代から1940年代にかけて築かれていた。その現代的な登場は、1990年代に無名のヘッジファンド・マネージャー、ワレン・モズラーが、ポストケインズ経済学に関するオンライン・ディスカッション・フォーラムで、ニューヨークのバード大学レヴィ経済研究所の学者、ランダル・レイと会ったときにさかのぼることができる。
モズラーはレイとともに政府支出についての理論の研究を始め、レイは1998年の著書「Understanding Modern Money」で同理論を紹介することになった。モズラーはマンハッタンのニュースクール大学の数人の大学院生を対象に、この新しい理論を研究するプロジェクトに資金を提供した。ケルトンはその学生の一人だった。
ケルトン氏が新たな注目を集めているのは、同氏が、今年民主党の多数の政策提案を後押ししている現代貨幣理論の最も著名な提唱者の一人だからだ。この理論によれば、インフレと金利が非常に低くなった現在、政府には財政赤字を考慮せずに借り入れと支出を増やす余地が十分にあるという。
ケルトンは軍人の家系で育ち、ノースカロライナ州からグアム州までの各地を転々とした後、カリフォルニア州立大学サクラメント校で経済学と企業ファイナンスを学んだ。彼女は、ロータリーの奨学金で英国ケンブリッジ大学で経済学の修士号を取得した後、レヴィ研究所の特別研究員に選ばれ、レイとともにMMTの基礎研究を始めた。
ケルトンはモズラーの理論を当初あまり重視していなかったが、FRBのマニュアルや財務省の文書を読み、これらのの政府機関の関係者に取材し、政府の財政の仕組みを解明しようとした結果、これに賛同することとなり、1998年に政府の支出に関する重要な論文を発表した。
1999年、彼女とレイはUMKCの経済学科に移った。
彼らは、経済学者マシュー・フォステーターとともに「完全雇用と物価安定センター」の設立に奔走した。ケルトンは2009年にブログ 「New Economic Perspectives」 を立ち上げた。自分自身や他のMMT支持者らは、このブログに財政政策への臆病さを減らすことがいかに公平な経済成長支えるかについての記事を書き連ねることになった。
「彼女は実に戦略的で、ブログの重要性を理解していた。」とレイは言う。
2015年、ケルトンはロサンゼルス・タイムズ紙に社会保障を拡大する必要性についての論説を書き、それが上院予算委員会の民主党のトップになる直前でチーフエコノミストを探していたサンダースの側近の目に留まった。
ケルトンはサンダースによる電話インタビューで、米議会はすべての米国民が適切な賃金の仕事、適切な医療、手頃な価格の住宅、安定した引退生活を得るための経済的権利を求めるべきだと述べた。
サンダースのスタッフディレクター、ウォーレン・ガンネルズ氏は「それは、サンダース上院議員がずっと以前から求めていたことと非常によく一致していたのです。」と述べている。
一般的に財政赤字とは、赤字という言葉から浪費の証拠と考えられがちだと思います。政府が帳簿を管理できていない証拠だと考えるわけです。何か良くないことなのだと。 ところが、過剰消費の証拠になるのは財政赤字ではなく、インフレなのですね。
そもそも財政赤字とは何でしょう? 私はよくこんな言い方をしています。財政赤字は人々を援助するものですよ、と。政府の赤字とは、経済の中に政府が支出した額と税で回収した額との差です。想像してみましょう。政府が米国経済に100ドルを支出し、税による回収は90ドルだけでした。これは政府の赤字であると識別され、政府の帳簿はそう記録されます。しかしこのとき、財政赤字が作り出した10ドルが経済のどこかに存在することになったという事実に注意を向けることを私たちは忘れがちです。つまり、政府の赤字とは私たちの黒字になっているのです。なので、政府の赤色ラベルについて話し合うときには、それは私たちにとっての黒ラベルになるものであること、政府の赤字は私たちの黒字であることをないつも気にかけておくことです。
財政赤字はものすごく重要なものです。ただ重要な理由は、私たちが教えられて続けてきたような理由とは違います。ふつう人々は赤字と聞くと、何かそれを解消するために努力しなければならないものであるとか、そもそも財政赤字は発生してはいけないものだというように思ってしまいます。赤字は政府が無責任な証拠であると考えるのです。でもそれは本当は、赤字が大きすぎれば問題になるということなのです。インフレは赤字が大きすぎすぎることの証拠になります。
逆に赤字が小さすぎることもあります。 赤字が小さすぎると需要を支えることができません。失業は赤字が小さすぎることの証拠になります。 このように財政赤字は、大きすぎることもあれば小さすぎることもあります。だから財政赤字の適正水準は、全体でバランスのとれた経済を私たちにもたらすようなところにあります。それは高いレベルの雇用を低いインフレで達成するような水準です。
それは場合によります。そこから高い成長に持っていくことで見込める利益と、そうなった時のインフレとの間のバランスを考える必要あります。たとえば、ゆっくりと成長している経済があって、今はほぼ完全雇用状態であり、インフレ率は2%程度であるとしましょう。問題はこうなります:財政を拡大するべきでしょうか?成長を後押しするためにより多くの財政赤字を計上するべきでしょうか?では、その目的は何ですか?適切な政策目標とはいったい何ですか?そこでの正しい政策目標とは、完全雇用であり、インフレ加速のリスクを避けた、バランスの取れた経済を維持することだ考えています。
経済学者は、長期的な成長を促すために私たちにできることは、教育、インフラ、研究開発などへの投資であると考えるものです。そうした投資は生産性の成長を加速させ、長期的な実質GDP成長率を高めるでしょう。そのために政府がいま投資する方法がいろいろあるのです。いま財政赤字を増やせば、それは明日の高成長を生み出し、そのとき増えた赤字を吸収できるキャパシティが新しく追加されているのです。
MMTの本当に単純な観察結果から出発します。それは米ドルは単純な公的独占であるということです。 別の言い方をすれば、アメリカ合衆国の通貨はアメリカ合衆国政府を起源としています。合衆国政府以外のところから来ることはありえません。そして、それゆえに、政府が通貨を使い果たすことはあり得ないことになります。政府は支払い能力の問題には直面しようがありませんし、政府への請求書が支払い不能になることもありえません。政府は支出の元手を探す心配がないのです。支出に先立って増税したりお金と借りたりする必要がそもそもないのです。
つまり、連邦政府は一般家庭と似てはいないのです。家計や民間企業が支出するときにはお金の用意を考えておくものですよね。 連邦政府は家計のような、そんなことをする必要がありません。むしろ、政府が一般世帯のように行動しようとすると、経済がひどい打撃を受けます。あなたや私は米ドルを使います。 州や自治体 - カンザス州やデトロイト市 - は米ドルを使います。 民間企業はドルを使います。対して 米国の連邦政府は、通貨の発行しています。だから通貨との関係が違うのです。 つまり政府は支出に先立って、政府は世帯や民間企業がしなければならないことをする必要がない。お金を確保しておく必要がない。 政府は経済に対してお金を支出することができる。その支出は民間の私たちの収入の一部として受け取られている。シンプルにこういうことです。
国の借金とはいったい何でしょうか。 国の債務とは歴史的な記録に他ならないのですよ。過去に政府が経済に対して支出したすべてのドルうち、まだ徴税されていない分の中で、いまは米国財務省証券という安全な形で保有されている分の記録に他なりません。それが国の借金です。 ですから、国の借金が大きすぎるだろうか、小さすぎるだろうか(あるいは将来的に大きすぎことになるかどうか)という問題は、実際には10年、20年、50年後に安全資産が多くなりすぎているだろうかという問題に帰するのです。
第二次世界大戦後、アメリカの国債残高がGDPの100パーセントを超え125パーセントに近づいたときがありました、そのときに何か起こったのかを考えてみてください。このことを指して、ちょうど私たちが今話題にしているように、それが重大な国家安全保障上の危険をもたらすとか、将来の世代に負担をかけていると言う人がいたら、髪をかきむしりながらちょっと待ってと止めますよね。私たちの祖父母が次世代に負担をもたらしたと思うのですか?第二次世界大戦中に売られたその国債は、戦争に勝利し、最強の中産階級を築き、最長の平和時代の繁栄、資本主義の黄金時代を生み出すことになりました。戦後赤字はさら増加し、政府債務の規模は拡大してきました。そしてもちろん、続く世代はそれらを受け継ぎました。次世代への負担になったのではありません。それは次世代の資産になったのです。
ですから、政府債務がいくらだったら多すぎるかを言うことは誰にもできません。今の日本は、債務がGDPの240パーセントほどです。米国も、今よりかなり、いや、桁違いに大きなものになるでしょう。CBOの将来予測よりもです。そこで疑問は、日本があの規模の債務をどうやって維持しているかです。 インフレ問題はありますか? 金利上昇につながっていませんか?何ら破壊的なことがありますか?日本が長年にわたり実証してきたように、これらは全部、シンプルにノーです。日本の債務はGDPの240パーセントに近いほぼ1000兆円と、とても大きな数字です。 長期金利はほぼゼロで、インフレの問題もありません。つまり、債務規模は悪影響になっていないのです。日本は私たちに本当に重要な教訓をもたらしていると思います。
国の債務が長期にわたって増加するときのただ一つの潜在リスクは本当はインフレなのです。だから、あなたが米国に長期のインフレ問題があると思っていないならば、米国が長期債務問題に直面していると考えるのはおかしいことです。
たとえば議会の議論の結果予算案ができて、インフラ投資などに数兆ドルもの新規投資を行うと決議された。そしてこんな但し書きが付いた。「国内インフラはまるで第三世界標準にまで近づいているから、数兆ドルを投資する。その投資は互いに相殺しないものとする」。これを単に「米国の経済に三兆ドルを追加支出だ!」とだけ言ったら、問題になりませんか? 反応はほぼ確実です。なぜなら、私たちは完全雇用に近い経済状態にあるから(私はそう考えていませんが)インフレを心配する声が上がります。つまり、問題はいつもこうなのです。「この経済は、価格を上昇させることなしに、どれだけの新規支出を吸収できるのか。」
ここで思い出してください。共和党は減税法案を可決し、その結果、今後10年間で約1.9兆ドルの財政赤字が追加されましたよね。これに対し次のように問うた人々がいました。「米国経済は1.9兆ドルの財政刺激を受容することなどできない。私たちは完全雇用状態にある。だからそんなことをすればあらゆる種類の問題が起こる!」しかしそんなことは何も起こらなかった。この経済はそれを吸収する能力を持っていた、というのが実際のところだったのです。
インフレに対する最善の防御は上手に攻めることなのですよ。MMTがやるのは、インフレのリスクに対しては物凄く神経質に考えるようにすることです。 マクロ経済の学派の中で、私たちほどインフレリスクの問題に注意を向けているところがあるとは思えません。私たちや議会が新しい支出法案を検討するときって、その新しい支出が赤字を増やしたり借金を増やしたりするかどうかが考慮されているわけですが、それはやめて、こう考えるべきです。その新たな支出にはインフレを加速させるリスクがどれくらいあるだろうと。そして、やり方を変えるのです。その視点からすれば、「何に使えばOKなのか」VS「赤字支出の垂れ流しをどう考えるか」ということですね。
これまでは議会予算局に行って「この法律をチェックして結果を教えてください。この支出によって債務と赤字が今後どうなりますか?」と聞いたものでした。これからはそうではなく、議会予算局なり他の政府機関なりに行って、こう聞きましょう。「インフラへのこの1兆ドルの投資を通過させることを検討しています。これが明細ですがチェックしていただけますか?この支出は今後5年間に分けて支払う予定ですが、これが実体経済に問題を起こすかどうかを教えてください。つまりインフレのリスクを計算してその結果を教えてください。」その結果、五年の支払いでは短すぎることがわかれば、米国経済にはそれほど十分なスラック(遊び)がないということなので、スパンを七〜十年に広げるべきでしょう。こういった責任ある予算というものに議会が向かい始めるのを見たいものです。
それから、完全雇用に近づくほどに、追加の財政支出には常にインフレのリスクが伴うことになっていきます。政府支出だけではありません。米国で生産される商品やサービスの需要が海外で急増し、そのとき完全雇用であれば、外需にインフレリスクが伴うことになります。あるいは、消費者がとても楽観的になった場合、仮に住宅バブルが発生していて、人々が住居を元手に新たな支出をするとすれば、これもインフレリスクです。つまり、私たちの過剰支出には常にインフレリスクがあります。 MMTがやろうとしているのは、全体の支出水準を、完全雇用と物価の安定と両立する水準に維持しようとすることです。
もしインフレが問題になったら何をすると聞かれますが、その質問はちょっと違います。最初にこう問うべきなはずです。「このインフレをもたらすものは何だろう?このインフレ圧の原因は何だう?」。なにしろ、政府の総支出が多すぎることで経済が過熱する結果、将来のある時点でインフレが重大な問題になる可能性が高いと考える、そのことが信じられません。
それはこういうことです。米国経済がデマンドプルインフレと呼べるものを経験したことは、この一世紀ほどもうないのです。米国で重要とされてきたインフレの実例は、ほぼぜんぶコスト面の要因から来たものです。これはコストプッシュインフレと呼ばれるものです。これは石油価格のショックのようなものが原因で起こります。住宅材料や医療費が原因で、消費者物価が上がることもあります。エネルギーがもっと典型的ですな。インフレの主たる推進力になるのは需要よりもこれらです。
ですから、インフレとの戦い方を考える場合に最初に問われるべきことは、そのインフレ圧力の源がいったい何であるかを理解することであり、次に、そのインフレを撃つのにふさわしい政策ツールで対応していくことだと考えています。 エネルギー価格の上昇によってインフレが発生した場合は、FRBに金利を引き上げさせたり、議会に税金を引き上げさせたりしてもおそらくあまり効果はありません。もっと有効な何かをしなければなりません。
MMTはインフレと闘うために税を使うという考えを拒否します。それは私たちが書いてきた内容のほとんどすべてと相容れない誤解なのですが、なぜか皆さんはいつもそうだと言うのですね。
それで、こんな風に考えてもらえたら素晴らしいです。私たちの経済は、資源をフルに使っている状態にいったいどれだけ近いのか。ほとんどその状態になっていれば、そこに政府が割り込んだり追加の支出が発生したりすれば、耐え難いほどのインフレになりえます。
では、私たちが完全雇用に近づくのに非常に近い経済状態であるとして。政府が安全にお金を使うことができるところはあるでしょうか? その答えはイエスです。政府が今日お金を支出し、それが経済の生産力を高める余地を増やすようなところがあるのです。そこへの追加支出ならば吸収できるのです。そうしたことが可能になるところとは、インフラ投資や研究開発といったところです。ブレークスルーや技術革新のように、経済をより生産的にすることを可能にし、生産性を高めるの。 教育も良い例です。
共和党の減税は、ある意味に私たちにMMTで本当に良い教訓をもたらしたと思います。リスクはいつでも財政赤字ではなくインフレなのです。あの時も、多くの経済学者はがこの減税は危険で無責任であり、伝統的なモデルや伝統的なアプローチによればあらゆる種類の悪影響をもたらすだろうと警告ましたね。もう証拠は出揃っています。ここでもやはり、教科書や一般的な物語が警告していた影響など一切なしの赤字財政支出ができています。だからこのことはとても良いMMTの教訓だと思います。
以前、一候補者だった頃のトランプは国の債務を心配していて、借金の再交渉ができないかとか、債権者と交渉する必要があると言っていて、そうしたコメントには多くの反発の声が上がっていました。そこで彼は誰かと重要な会話をしたのではないかと思います。彼はストーリーを変えました。それから彼はこう言い出しました。「言わせてくれ、債権者と交渉する必要などないんだぞ。言いたくはないが、お金を印刷するんだ、OK? 言いたくはないが、デフォルトなんてするわけがないんだ。」 借金王は気づいたのだと思います。個人や企業がカジノや不動産の資金調達のために借金をすることと、国債を売って国の債務を得ることは異なるのだと。いつでも期限に支払いを実行できるのだということを。
そうですね、彼は自分がやりたいことがわかっていたわけです。 私たちが初めて会う前、彼はもうすでにアジェンダを打ち出していました。 彼の12項目のアジェンダは大統領選挙を戦う中での一種の岩盤となっていました。なので私ができることについては貢献できましたが、彼の大きな政策のアイデアは私が関わる前に形ができていたのです。
ええ。
そうですね、彼らが公開しないうちは公開できません。
立候補を表明した人たちを観察しています。民主党員は大きく揺れていることがわかります。 前回より野心的な政策提案が出ています。2016年にはまだ道が舗装されていなかったようなことです。ブッカー上院議員は「赤ちゃん国債」と呼ばれる大きな提案をしています。 ハリス上院議員は、中産階級への大減税を言っています。 ウォーレン上院議員はグリーンニューディールを。 サンダース上院議員はジョブギャランティーについて話しています。このように、そこにはあらゆる種類の大きなものが揃っています。これらの大きなアイデアを中心に、民主党には非常にエキサイティングな可能性があると思います。